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平成20(2008)年1月のコラム一覧へ戻る

団藤重光教授と裸の王様

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.団藤重光先生は、刑事法の東大名誉教授であり元最高裁判事です。今上陛下の皇太子時代の東宮職参与でもありました。東大法学部を主席で卒業。日本学士院会員。勲一等旭日大綬章受賞。文化勲章受賞。斯界の権威です。大正2年生まれの95歳。信奉者が大勢います。

私も、司法試験の受験生時代、教科書を読んでいて、不明に思った点を団藤先生の本の該当箇所に当ると疑問が氷解したという経験が、一度ならずありました。

先生は、最近、裁判員制度に関連して、死刑廃止なくして裁判員制度なし、裁判員制度を実施するのであれば死刑を廃止すべきだと主張しています(朝日新聞平成19年12月20日付け朝刊)。

先生は、以前から死刑廃止論を展開し、著書(「死刑廃止論」)も著しています。このたび発足した裁判員制度では、国民の中から選ばれた裁判員が死刑の判決にかかわることになります。そこで、先の先生のご高説となったようです。

2.先生は、もともと死刑について反対ではありませんでしたが、最高裁判事になり最高裁で死刑判決を言い渡したとき、傍聴席から「人殺し」と罵声を浴びせられ、それがきっかけで、死刑廃止論者に転向しました。これは先生自身も認めていることです。先生は、当時は、被告人の親族の声と思ったようですが、今では、市民運動家のヤジであったことが明らかになっています。

いくらなんでも、そのような情緒的理由ではなく別に死刑廃止を論理必然とするような学問的な根拠があるだろうと先生の著書「死刑廃止論」を紐解いても、そこには、そのような記述は一切見出すことができません。現在、理性的で平等な個人が集まって社会を構成するという構図は、維持されていません。古くは、フロイトによって無意識が、マルクスによって人よりも物が崇拝される物神化・人間疎外が指摘されました。さらに現代では、個人のレベルでは、広く生物としての行動原理が、共同体の観点からは共同体自体の個人に及ぼす影響が問題とされ、個人と共同体との緊張関係について、厳しい見直しが行なわれています。進化生物学、進化心理学、ゲーム理論、人口や地理的状況を重視する歴史学など新しい学問のみならず、哲学、文化人類学、政治学、経済学、社会学、法律学など伝統的学問分野においても、刺激的な成果が発表されつつあります。今、死刑制度を論ずるのであれば、それらを検討し咀嚼した廃止論が展開されるべきであり、そう期待するところですが、それは見事に裏切られます。「間主体性」なる術語が述べられていますが、死刑廃止論の根拠にはなっていません。同書からは、死刑に対する嫌悪感のみが読み取れるだけです。ニーチェが生きていたなら、死刑判決を言い渡す責任を負う覇気に欠ける怯懦な精神だの、畜群精神だの、呪詛の言葉が吐き出されること必定です。

実は、先生には、「前科」があります。先生は、学者のとき、共謀共同正犯を否定していました。共謀共同正犯論とは、犯人が共謀して犯罪を行ったときは、現場にいなくても責任を負うことを認める、主として判例の理論です。先生は、刑法学者として、これを認めませんでした。しかし、先生は、その後、最高裁判事になるとき、これを認める立場に転じました。学者の良心と実務家の良心は違うとの弁明とともに。

先生は、将来、違う立場に立たされたときには、再び死刑存置論に転向するのでしょうか。その疑念を払拭できません。

3.先生は、死刑廃止の理由として誤判の可能性をあげ、前述の新聞記事では、裁判員制度では誤判の可能性が高まると断言し、裁判員が法廷で人殺しと叫ばれればいい、とまで発言しています。とんでもない暴言です。

ドストエフスキーの「白痴」には、死刑を宣告される者の恐怖が見事に描かれています。恨みを買って殺される、他人の欲望の犠牲になる、そういうことなら、許せないにしても、まだ分る部分がある。しかし、国家という姿形のない抽象的な存在によって、合目的的に、確実に、死に至らせられることの恐怖は、例えようもない。

それゆえに、死刑は、国法体系のもと、最終の暴力、「聖なるもの」(ジラール「暴力と聖なるもの」)として、復讐の連鎖を断ち切る装置となるのです。またそうあらねばならないのです。

法曹は、冤罪をなくすよう、国民から託され、死刑を含む司法制度を彫琢する地道な血のでるような過酷な業務に従事しているのです。裁判員に選ばれた国民もまた、その努力を求められます。裁判員制度が問題点を抱えているとしても、国民が自分の問題として、これを解決していくべきものです。

先生の言葉は、国民を見下し、その努力を侮蔑するものに他なりません。

4. 先生の「死刑廃止論」は500頁近い大書ですが、被害者・遺族の悲惨、無念について触れた箇所は一つもありません。

ホロコーストを生き延びたユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの作品「夜」は、我々に対して、なぜ我々は生きていられるのかを問いかけます。我々は、ただ単に殺されなかったというだけの者なのです。我々は、「殺されたのは私で、何故お前ではないのか。」と問う「死者の眼」に射竦められながら、生きのびなければならないのです。

死者には、殺人者に殺された者、国家によって死刑に処せられた者、のみならず冤罪で死刑に処せられた者もいます。それら死者の問いかけに我々はどう応えるべきか。

先生には、今、目の前にある死刑囚の命しか見えないのでしょうか。

5.およそ制度について論じるとき、理念、理想は必要不可欠ですが、それだけでは足りません。智恵が必要です。もっと言えば、狡智、でしょうか。何故なら制度を運用するのは、生身の人間だからです。

先生は、死刑については何があっても認められない、その後のことはあとで考えればいいと言い切りますが、そこには智恵も狡智も認めることができません。

もしかすると団藤先生は、世間で「学校の勉強はおできになるんでしょうけど、その他のことは、ちょっとねえ…」と言われるようなお方なのでしょうか。いえ、学者馬鹿というならまだしも、それはまだ買いかぶりで、その実体は、端的に、「付ける薬はない」とされる方なのではないでしょうか。そうだとすると、誰かが言って差し上げる必要がありそうです。

団藤先生、アンタァ、裸の王様だ、と。

6.罵声を浴びせられて先生が死刑存置論に転じてくださる夢をみました。

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