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平成21(2009)年5月のコラム一覧へ戻る

裁判員と量刑とソクラテス

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.裁判員制度の最大の特色は、裁判員が被告人の犯行か否かの事実認定だけでなく、被告人にどのような刑を科するかの量刑まで担当することになっていることです。

私は、裁判員の役割として量刑の判断まで含まれていると知ったとき、正直に言えば、驚きました。アメリカの陪審裁判でも、基本的には、陪審員に課せられるのは、事実の判断だけで、量刑は裁判官にゆだねられています。

裁判員制度に対する一般国民の不安の大部分は、自分が裁判員となって、人を裁くという事態に耐えられるのか、という点にあるのではないでしょうか。

事実認定においては、裁判員に要求されるのは、検察官の提出する証拠から有罪と認められる程度の立証がなされたか否かを判断することであり、それに尽きます。そこでは、人を裁くことに間違いはないにしても、その役割意識はそれほど強いものではありません。

しかし、量刑は、それを判断する人の全人格が問われます。量刑は、被告人の生命や身体、財産に対する極めて権力的な具体的な作用です。量刑をどうするかは、社会正義とは何か、公平とは、犯罪と刑罰の本質、被害者や遺族の感情、社会がどう受け止めているか、被告人の更生の可能性、拘禁施設の実情、などなど局面を異にする複雑な要素を考慮することが必要です。

量刑については、「正解」はないのかもしれません。量刑が、「信条と決断の問題」といわれる所以です。


一般人が量刑の判断に耐えられるのかという、およそ2400年に渡って議論されてきたテーマが、今、この国で改めて具体的な、そして広範囲に影響を及ぼす問題となって立ち現れたのであって、多くの国民が不安に思うのはもっともなことなのです。

2.今般の司法改革において、陪審制の復活を熱心に推進してきた日弁連は、裁判員制度という成果を得たことで、有頂天になって、気が緩んでいるのではないでしょうか。国民の常識を反映させることになって結構なことだという程度の認識のようです。裁判員制度の推進派の中でも、裁判員に量刑を判断させることの問題点を認識している人は、五十嵐双葉弁護士など少数にとどまります。

最高裁は、陪審裁判に対して頑なに反対してきたのが一転、裁判員制度を積極的に押し進め、量刑についても常識で判断すればよいと宣伝しています。

立法者や関係者が、漠然と、事実認定と量刑との違いを考慮せずに、国民が参加するから好ましい、量刑まで国民の良識が反映されることは素晴らしい、と考えていたのだとしたら、思慮が足りないというべきです。

両者の違いを理解したうえで、なお量刑の判断の難しさが存在しないかのように行動するのであれば、そこには何かが隠されているはずです。何かの企みが。


一般国民に量刑の判断をさせるべきではない、あるいはそもそも裁判に関与させるべきではない、というのは一種のエリート主義です。民主主義(デモクラシー)に懐疑的であった、プラトン、アリストテレス以来の伝統です。アリストテレスも、陪審員には、事実認定をさせても、量刑はさせるべきではないと言っています(「弁論術」)。


しかし、裁判員が、量刑に不安を覚える。その「おそれ」にこそ、裁判員に量刑を判断させることの意義が認められるのではないでしょうか。

量刑判断を間違いなくできる、と断言する人がいたら、それこそそっちの方がかえって恐るべきことです。

私は、裁判員裁判には基本的に賛成ですし、是非、成功させたいと願っている者です。そして、裁判員に量刑の判断を担当してもらうことには重要な意味があると信じています。

量刑こそ、国民の判断力が問われるのです。

犯罪者の犯行によって傷ついた社会構成員相互の社会的紐帯を再生し、どうすれば社会を再び統合することができるかが問題です。場合によっては、その結論が、被告人を死刑に処することである場合もあり得ます。

「人を殺す思想がなければ、人を生かす思想もない。」(別所実)。

被告人を、再び、我々の仲間と認めることができるかどうか、が問題です。

その意味では、犯罪者の反省や更生の可能性は重要です。もし犯罪者が心から反省し、社会の一員として復帰できるのであれば、死刑を回避するひとつの理由となりえます。犯罪者の謝罪の言葉を、心からのものか、言葉だけのものか、判断することも裁判員の重要な仕事となります。

3.裁判官は、これまで、あるいは判例を検討し、あるいは他の裁判官の裁判を参照し、その職業団体の常識として、量刑を考えてきました。これを、現場の裁判官のいわゆる「暗黙知」(マイケル・ポランニー)と言うことができるでしょう。量刑相場という言葉は、少し品がありません。

裁判員には、その職業裁判官の常識による量刑を、改めて見直す契機となることが期待されています。裁判員が、平等な立場から、その自由な量刑感覚を裁判官にぶつけることに、意味があります。

最高裁は、事案ごとの量刑基準を考えているようですが、限界があります。かつて、コンピューターによる量刑検索システムが開発されましたが、それに関わった裁判官からの評判は悪かったといいます。データ上同じように見える事件でも「機微」は見えず、裁判官が迷うのは、まさにそこだから、というのです(読売新聞社「ドキュメント裁判官」)。 さらに最高裁は、キーワードで検索できるシステムを考えているようですが、本当にそれで生きた事件を把握できると考えているのでしょうか。


裁判員裁判において、裁判官は、量刑基準を持ち出し、誘導しようとするかもしれません。裁判員は、それにこだわらず、自分なりの考えで、自分の意見を述べる権利があります。

裁判官は、裁判員の意見に耳を傾けるかもしれません。無視するかもしれません。新しい量刑を、裁判官、裁判員ともに探っていくのだと正しい認識を有する裁判官であるなら、裁判員の意見を聞こうとするはずです。

そして、裁判官は、その意見に見るべきものをくみとり、今後の量刑に反映させるべく努めることでしょう。

量刑の問題こそ、裁判員と裁判官との協働が期待されるのです。

アメリカのマサチューセッツ州では、有罪判決後、裁判官が、量刑のため関係者(保釈係官(probation officer)、ショーシャル・ワーカー、刑務官、家族、被害者)からヒヤリング(聴聞)をし、裁判官が判断をするそうです(丸田隆「裁判員制度」平凡社新書159頁)。それは、ベテランの裁判官にとっても、難しい任務と認識されているそうです(同書)。

日本における量刑についての研究でも、一般人が、量刑に際して考慮したい事項として、刑務所での作業内容、再犯率などを挙げているとのことです。監獄での実態などのデータは是非とも欲しいところです。

裁判官に対する刑罰行政の研修を義務付けるのも有益かもしれません。裁判官の発言に説得力が生まれます。

裁判員法では、量刑について、条文が足して2で割る形になっています。最終的には、評議がどうなろうと、結論はでるようになっています。しかし、評議は、安易に足して2で割ってはいけないのです。十分に評議を尽くす必要があります。その内容は、裁判員制度の「見直し」の機会に、今後の参考資料となることが期待されています。

裁判所が、政策官庁になるきっかけとなるかもしれません。


弁護士も、従来、寛大な処分を、とか、せいぜい執行猶予を、とかしか主張してきませんでした。これからは、懲役何年が妥当というように具体的に主張することが必要になるかもしれません。根拠を示して。


裁判員裁判では、罰は重くなるでしょうか。それとも軽くなるでしょうか。いずれにしても、裁判員が自由に発言し、自由な議論が行われたときには、量刑にばらつきがでるはずです。逆に、量刑に幅がでないときには、裁判官による統制が行われたと推測することができます。


光市の事件における最高裁の判断を契機に、未成年者の犯行であっても、死刑が求刑され、そのような判決が言い渡されるケースがでてきました。

最高裁も、量刑を模索しているのです。

4.紀元前399年、ソクラテスは、神々を冒涜し若者をまどわせたという罪で死刑を宣告されました。言い渡したのは、アテネの一般市民です。

その死に衝撃を受けたプラトンは、なぜソクラテスが死刑宣告を受けなければならなかったのかを生涯にわたり考え続けました。そしてその哲学を完成させました。

その後も、はたしてソクラテスは死刑に値することをしたのかどうか議論されており、それは現在まで続いています。


イデア論(目に見える世界とは別に本質的な世界がある。)と弁証法(討論、議論を通じてイデアに近づく。)とを内容とするプラトン哲学は、西洋の思想的バックボーンとなりました。曰く、西洋の全ての哲学はプラトン哲学の脚注に過ぎない(ホワイト・ヘッド)。あるいは曰く、キリスト教はプラトン哲学の大衆版である(ニーチェ)。


仮にアテネの市民がソクラテスに死刑を言い渡すことがなかったとしたら、仮にプラトンがソクラテスの死刑について考えることをしなかったとしたら、現代の世界は、今とは全く異なったものとなっていたことでしょう。

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