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平成27(2015)年6月のコラム一覧へ戻る

数学セミナー

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.日本が世界に誇れるものって何でしょう。

富士山?山中教授?日本語?

私は、雑誌の「数学セミナー」を推したい。

数学セミナーは、日本評論社が発行する、数学をテーマにした月刊誌です。普通の本屋さんに並んでいます。想定読者は、数学のみならず、理工学部の大学1、2年生です。毎年、4月号は、大学の新入生が読むべき本、なんていうのを特集しています。

それはそれとして、大学生でもない、一般人にも読者が相当数いそうです。他ならぬ私も、そのうちの一人。かれこれ40年近く読み続けています。

そもそも、日本には、和算の伝統があります。算額といって、普通の人が、数学の問題を出したり、解決したりした結果をかいた絵馬が神社に掛けられていました。私の実家の近所にも、そのような神社があります。自力で、微分に相当する数学を創り出した関孝和のような偉人もいます。

現代において、数学には関係のない一般の人も読者であって、そこそこの部数が発行されている数学の雑誌がある国、日本の他にありますか。

数学は、日本の国力を底で支えていると信じています。

2.昭和50年、大学は、「潰しが効く」という高校の級友から聞いた言葉を真に受けて入った法学部。しかし法律の授業は、どれもこれもつまらないものばかり。法解釈学といって、いまある法律を、ああでもない、こうでもないと、議論するのです。大体は、A説、B説、折衷説と三つの説があります。そして、その根拠としては、公平とか、正義とか、はてはリーガルマインドなどというものまで持ち出されます。しかし、さらにその内実までが追及されることは極めて稀です。

学問の名に値するのは、その価値観を妥当とする普遍的なあるものを追及することであるはずです。

当時、文系の学部で、多少なりともその感じがしたのは、経済学、それも数理経済学でした。今からは到底信じられませんが、数理経済学は、なにか新しい世界を切り開くのではないか、と大いに期待される空気が確かにありました。数学者をはじめ、理学部から、俊英が、経済学の分野へ、なだれ込んできました。中には、世界的に有名な学者になった人もいます。

法律の本をそっちのけで、数学の本を読みふける日が続きました。高校では、アルゴリズムとして習っただけの微分積分を、ε-δ論法という厳密な数学の流儀に倣って、勉強しなおしました。そのころから、数学セミナーを読み続けています。

法律では論理が大事だと、したり顔で言われるのですが、数学の論理とでは、その厳密さで大人と子供、月とすっぽんくらいの差があります。法学徒が、そのようなことを口にするたびに、私は、恥ずかしくて死にそうになって、一人、うつむいているのでした。

唐突ですが、論理の飛躍を承知で結論だけ言うと、その時々の判断を決めるものは、当人の美意識に帰着すると信じています

3.せっかく法学部に入ったのだから、司法試験くらい受かっておこうかと思ったのが間違いでした。司法試験に合格し、法曹資格をもっていたり、あるいは少々の実務の経験があると、発言力が増すかな、くらいの気持ちでした。

ところが、司法試験は難しかった。ずるずると勉強をつづけ、受かったときには、もう学者になる希望などありませんでした。その間も、数学セミナーは、パラパラとではありましたが、見ていました。

弁護士になり、実務で、実際の紛争解決のダイナミズムに触れると、私は、その虜となりました。一般的な法理論を、個別の依頼者にあてはめ、証拠を集め、法廷で証人尋問をし、裁判官を説得して、依頼者に勝利をもたらしたときの快感は、例えようもありません。数学には及びもしませんが、普遍的なものと触れている、という感覚がして、楽しかったのです。

ただ、リーガルマインドという言葉を聞いて、反吐がでるほどの嫌悪感を覚える癖は、昔のままでした。法律の勉強を何の疑問もなくできる人とは、決定的な差がある、とは今も感じます。

他の大勢の弁護士や弁護士会の通念には、大いなる違和感を抱くことがいくつもありました。そのうちの一つが、死刑問題です。私は、死刑制度は、現代においても、意義があると考え、信じています。その概要を文章にして、日弁連の機関紙「自由と正義」に投稿したところが、採用され、掲載されました。平成7年(1995年)1月号です。題は、「死刑制度存置論」。国会図書館では、論文として分類されており、面はゆい思いです。その全文は、当サイトで読むことができます。今でも、アクセスがあります。

その他、公平、正義、社会的相当性、人権、平和主義などが、それ以上の説明がなく、ある主張の根拠として持ち出されます。最近の裁判員裁判の量刑の件でも分かるように、最高裁判所の判事ですら、公平という言葉だけで国家の重要な問題について解決したと思い込んでいるのですから、法曹「村」の病は重症です。何か深遠なことを考えた末の結論だと思っているのは当の本人だけで、外の人からみたら、議論が不十分であるか、あるいは単に馬鹿だと思われているだけだということに、早く気が付いてほしいものです。

4.弁護士になって27年余り、紛争解決に全力を傾けてきましたが、一方で、そもそも紛争がおきるのは何故か、その解決方法如何という、より普遍的な問題意識を、ずっと持っていました。

あるときは、法の起源を求めて、ギリシャ哲学にのめりこんだときもあります。その後、進化生物学にどっぷり浸っていたときもあります。

ここ数年、おぼろげながら、形が見えてきたのですが、なかなか文章になりません。できれば、数学を使って表現して、多くの人を説得したいものだと願っています。

今、数学セミナーを毎月読むのは、私のアイディアを表す数学はないか、と探すためです。

数学者の皆さん、ある日、風采のあがらぬ弁護士が目の前に現れて、共同研究を申し込んだとしたら、どうか邪険にしないで、とりあえず話くらいは聞いてあげてください。

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