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平成28(2016)年2月のコラム一覧へ戻る

死刑廃止を声高に叫ぶ人々

執筆 : 代表弁護士 大塚嘉一

1.死刑制度の廃止を強く主張する人々がいます。日弁連や、私の所属する埼玉弁護士会やその他の単位会もそうです。死刑の執行があるたびに、反対の意見表明をしています。

日本弁護士連合会死刑廃止検討委員会では、死刑廃止を日弁連の総意とする声明を準備中です。

死刑制度の存廃問題については、従前から議論があり、決着がついたとは思えません。もう議論は出尽くした、あとは態度決定の問題だ、ともずいぶん前から言われていますが、私は、その意見には組しません。まだまだ議論しなければならない問題が山積しています。

その内の一つが、死刑廃止を主張する人たちの分析です。どのような人々が死刑廃止を主張しているのか、どのような動機でそのようなことをするのか、などなどです。

本稿は、司法試験という難しい試験に受かって頭もいいはずの弁護士が、なぜ、死刑廃止などという馬鹿げたことに大騒ぎするのか、という一般の人々の疑問にも、応えることになるかもしれません。

2.まず、特定の人を死刑にさせないために活動している人々がいます。これを、Aグループと呼ぶことにします。次に、権力そのものが嫌いであり、その極限の発露たる死刑に反対する人々がいます。これを、Bグループと呼ぶことにします。そして人権尊重、生命尊重などの理想から、死刑制度の廃止を主張している人々がいます。これをCグループとします。Cグループの中には、AグループやBグループの存在を明確にあるいは漠然と覚知しながら、方向性は同じであるから良しとしようと考える人々も、Aグループ及びBグループの存在を知らず、知ろうともせず、ただ単に人権尊重、生命尊重という理想から、死刑廃止を主張する人々もいます。

問題はCグループです。法律の授業では、まず憲法で基本的人権を教えられますから、ナイーブに、人権尊重=死刑廃止、と考えている人もいます。笑い話ではありません。

大学、あるいは法科大学院では、法解釈学と言って、今ある法律をどう解釈するか、という教育が一般的です。法の根拠である正義や、権力など強制力の根拠を問う法哲学や、法の由来、履歴を問う法歴史学などがありますが、多くの時間が割かれることはありません。

啓蒙主義の洗礼を経た現在、法解釈学の分野では、人類に新たな知見をもたらすとか、新たな知の地平線を切り開く、などということは、まずありません。現に、近現代において、そのような人が登場したとは、寡聞にして知りません。法律学は、覚えることが多く、ほとんどの人が、暗記することに精力を奪われています。法律の勉強で頭がいいと言われる人でも、法の根拠を鋭く分析するとか、隣接諸科学と適合する説得力のある理論を展開するなどという方面ではなく、効率的に暗記して、適宜引き出すことが得意な人が持てはやされるということが多い。最高裁の判事クラスの人でも、そのレベルの人が多い印象をうけます。

ですから、授業で、人権尊重からは死刑制度廃止が当然だと教えられると、そのとおり無批判に、死刑廃止論者になってしまう人がいます。そしてそのような人は多い。繰り返しますが、これは笑い話ではありません。

3.死刑廃止論者は、なぜ、馬鹿な人が多いのか、もとい、批判的思考力に問題のある人が多いのか。

Aグループ及びBグループの人々の中には、相当程度に普通の意味で頭のいい人が混じっていそうです。そしてそのうえで特定の思想や理想から活動しています。この方々と議論すれば、かなり面白い議論が展開することが期待できそうですが、法律学の枠を軽々と飛び越えてしまいそうです。しかし、このような面白い展開も、実際には期待できません。

Cグループの人々が、批判的思考力に問題がある人々です。これは、法律の問題、その教育方法の問題でもあることは、前述のとおりです。批判的思考力をもともと持っていた人でも、法律を習得する過程で、それをすり減らすのかも知れません。

驚いたことに、死刑廃止論者には、自分が、頭がいいと思っている人が多い。あるいは、(無意識のうちに)頭がいいと思われたいという人が多い。それは、死刑廃止論者と話すと、教え諭すような口調になる人が多いことからも分かります。一部に、遺族を悪しざまに罵ることで有名な元学者で弁護士のような人もいますが、それは少数です。

死刑廃止は文明国、先進国では当然である、と考えている人も多い。そのような人々は、犯罪被害者の悲惨から目をそらし、自分が文明国、先進国の一員であることを誇示しようとしています。オピニオン・リーダーにでもなったつもりなのでしょう。

死刑廃止の活動をしている暇があったなら、犯罪の撲滅のために活動したらよろしいのに、と言いたい。死刑に相当するような犯罪がなくなれば、おのずと死刑はなくなるのですから。しかし、その活動は、単に死刑廃止を叫ぶことに比べ、何倍も、何十倍もむずかしいはずです。

あるいは、既に大多数の弁護士が、死刑廃止論者であるという現状では、その中で、死刑制度に賛成の意見を言うと、仲間外れにされたり、あるいは実際に不利益を被るということがあるのかも知れません。

私の場合は、大昔から、死刑制度存置論を公言しており、死刑廃止論者からは、ああ、またあいつか、と言われて、放置されているのかなと思っています。

日弁連死刑廃止検討委員会の委員の先生方は、元気な人が多い。明るく死刑廃止運動を展開しています。愚者の楽園と申しましょうか。死刑廃止論者が元気なのは何故か。ノルベルト・エリアスの「文明化の過程」にヒントがあります。人類は、その歴史の過程で、常に競争を繰り広げてきた。かつては、武力を互いに誇った時代もあった。しかし、現代では、文化的に洗練されていることを誇ることが競争となっている、そうエリアスは喝破しました。俺の方が頭がいい、私の方が人権感覚が優れている、と思い込んでいる、あるいはそう思われたいと(無意識にであれ)願っている人々が、死刑廃止論を武器に、自分が上流社会、知識階級に属していることを誇示するため、競うように、元気に死刑廃止論に励んでいるのです。

そのような人々が、殺人の被害者の悲惨に目をつぶり、あるいはこれを故意に無視しているのです。死刑には一般的抑止力はない、と思い込んでいます。あるいはそう、信じようとしています。死刑制度について、深く考えたことがないからです。あるいは洞察力に欠けるからです。

我々の究極の目標は、犯罪による死亡も含めて、暴力による死をなくすことであるはずです。死刑がない国でも、裁判を待たずに、犯罪者を射殺する国もあります。死刑制度があっても、裁判をしてからの国と、裁判をしないで犯人を現場射殺する国と、どっちが「文明国」なのでしょうか。

殺人事件や現場射殺が無くならない限り、死刑廃止は、知識人の自己満足であり、偽善です。

エリアスはまた、文明化の意味を考察し、社会構成員それぞれが、その欲する行動に従うことがすなわち社会の要請に合致するような段階に至って、はじめて文明化が完成した、と言えるのだと述べます。

仮に死刑を廃止できたとしても、自分の欲望により他人を殺害するような犯罪者などが社会にいる限り、死刑廃止論者が、文明国だと誇ろうとも、我々は、エリアスとともに、いまだ文明化は完成していない、文明化の過程にある、と言わざるをえません。

私は、死刑廃止論をとらない日本のさる哲学者の、自分が将来、事情あって、取り返しのつかない行為をしてしまったとき、自分の首を刑場に差し出す余地を残しておいてほしい、との発言に、感動する一人であります。

人権感覚に優れたはずの死刑廃止論者の先生方が、なぜ、弁護士会内の死刑存置論者の思想、信条を無視できるのか不思議です。強制加入団体で、特定の思想、信条を公にすることは止めていただきたい。少なくとも、反対の意見の会員があることを明示してもらいたい。

4.憲法9条や安保法制に関連する議論でも、それを主張する人々に着目すると、同じような構造があることが分かります。

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