2026.09.11
小砂川チト「ゾンビ回収婦」を読む(その2)
弁護士 大塚嘉一(おおつかよしかず)
1.本作品の最後は「…わたしをようやく迎えにきたあなたのすがた、すまなそうにわらうあなたの顔、それを見る。」で終わる。「あなた」とは誰か。私は、それは主人公の夫であると考えた。そう考えたい。
では、その夫は、現実社会の夫か、主人公の幻視のなせる業(わざ)か。私は、それは現実の夫であると考えた。そう考えたい。しかも、今、主人公を救うために、主人公の目の前にいる、と考えた。そう考えたい。
2.これに対して、最後の「あなた」とはゾンビである、またはゾンビになった夫である、または読者である、または現実の夫であるが主人公の目の前にはおらず、それは主人公が見た幻覚である、との解釈があろう。この解釈では、主人公は仮想空間のなかで、物語を終えることになる。多くのプロの批評家、書評家、芸術至上主義者、耽美家、ゲーム・マニアらの解釈である。
本作品の美点であるスピード感、奇想天外な設定、精緻な仮想空間の描写などを評価する評者としては当然の解釈である。究極の不条理を描いた作品であるとして、大いに賛同できる。
しかし、本作品のもう一つの美点である、読み手の見方によって、結論が変わる点、具体的には、最後の「あなた」を誰と考えるかという点については、検討の余地がある。
私は、本作品を一個の芸術作品として、完結させ、終了させることは、本作品の価値を見失う恐れがあると主張したい。
「…わたしをようやく迎えにきたあなたのすがた、すまなそうにわらうあなたの顔、それを見る。」で本作品は終わるのではなく、その後の夫婦の会話、そして行動こそが、本当に著者の言いたかったことなのだと考える。そう考えたい。
本作品は、その後の書かれなかった部分にこそ、著者の主張が込められている。本作品は読んで、難しいとか、面白くない、という評価がある。当然だという面もある。本作品は、テレビの視聴者参加番組ならぬ、読者参加小説なのである。読者が、自分で、この後の夫婦の会話や行動を想像しなければならないのである。
著者が、後に、バッドエンドでもハッピーエンドでも、あり得る話として書いた、との発言は、この点を言っているのであろう。著者から、宿題を与えられた気分である。
3.私が、以上のように考える理由は第一に、本作品の「文理解釈」である。本作品の冒頭、主人公の夫の紹介の部分で、夫は「いつも…すまなそうに笑っている」とある。最後の「すまなそうにわらう」は、冒頭の「すまなそうに笑っている」と一致する。
「すまなそうに笑う(わらう)」というのは、見る人との関係性をも想像させる、個性をとらえた現実的、写実的な表現である。単なる記号ではありえない。
著者の用意したテキスト(「すまなそうに笑う(わらう)」)を看過するのは、契約書の文言を読み落とすのと同様の基本的な間違いであり、文学的素養、センス以前の問題である。
第二に、最後の「ようやく迎えにきた」は、冒頭の夫の書置きに「しばらくのあいだ、演奏旅行にでてきまーす!!」とあり、失踪ではなく帰宅を予定する旅行であることが示されている事実と符合する。
「演奏旅行」とは、彼なりの精一杯のジョークだと思われるが、いずれ帰宅するとの強い意志表明でもある。
第三に、「ようやく迎えにきた」との言葉には、主人公がそれを待っていて、再会できたことによる安どの感情が感じられる。
第四に、主人公は、一時(いっとき)に、仕事と夫とをなくし、虚無感に襲われた。その主人公は、夫の残したVRヘッドセット(私は、それが何かは正確には把握していないが、ゲームの機器なのであろう)を着用し、仮想空間に入り込んでいく。主人公も、夫との繋がりを、無意識にでも求めていたことが分かる。
第五に、主人公の両親が、彼女の中では9年間の後、現実には10日間の後、意識を失った主人公を発見し、懸命に救命に努める描写がある。母親が、「ねえ、ほんとうにどうしちゃったの。なにがあったの。△△さんはどうしたの、演奏旅行っていうのはこれなんのこと」と言い、夫の不在を問題にしている。連絡を受けた現実社会の夫が救済に現れる可能性は大いにある。
第六に、冒頭のゾンビ回収婦の紹介のあと、主人公と夫が二人そろってAIに解雇された後の二人の会話が、丁寧に書かれている。それまでむしろ無口であった夫が、饒舌にメロトロンやら洗濯機の話をする。そして突然、夫は旅行に出る。主人公は、夫のことを何も知らなかったと思う。その部分に対応する相応の分量の記述が、その後、現れない。不自然である。
夫の洗濯機は素晴らしいとの言葉に、主人公は、でも洗濯婦は失業したと鋭く切り返した。その議論の行方はどこに行った。夫の「演奏旅行」とは、「ほんとうにやりたかったことを、ぼくらははじめればいいじゃない!」と、主体性に目覚めた夫の宣言である。その後はどうなったのか。
虚構世界中の、クマの、仕事とか給金とかは人類の発明した最大の照れ隠し、との鋭い言葉は、本作品の全編を通じての最大の問題提起だと思うが、労働とそれに対する対価の問題は、歴史上も、哲学上も、経済学上も、それこそ人類の精神史において多くの賢者の参戦する論争があり、数多くの議論の積み重ねのあるところであるが、著者もそれを知らないはずもなく、その後の明示的な展開が記されていないのは、それこそ、著者の照れ隠し(ジョーク)、なのであろうか。
第七に、メリバという言葉がある。メリーバッドエンドの略だそうである。本人が幸せなら、周囲の者には関係ない、というほどの意味らしい。そうではないだろう。フランダースの犬も、特攻隊員も、ある意味では幸せだったと言うことができるかもしれないが、それで片づけてはいけないだろう。個人の周りには、社会というものがあるのだから、その責任があるだろう。本人の社会に対する責任もあるだろう。
第八に、確かに、両親にヘッドセットを剝ぎ取られ強制的に精神病院に入院させられることでゲームは一旦終了となった主人公ではあるが、なおも現実と幻想の狭間を揺蕩う(たゆたう)。
それは亜急性期の典型的な症状。一方で、主人公は、もうヘッドセットがなくても、目を閉じさえすれば、自由に病院を抜け出して口唇期ホテルに蛇のようにたどり着くことができる。他方で、その身体には、「あつい」、「さむい」、「空腹」の感覚が戻ってきている。主人公の脳は「加速度的に回復をしめすようになり」、主人公自身も、「もとの生活にすんなり戻ってゆけそうな気がした」。主人公は、身体感覚を取り戻しつつある。
予兆。虚構世界中の主人公は、密かに心を寄せていたゾンビのアラスカ(頼りない夫の残像)に期待を寄せ、勇気を出せと、陰に陽にプレッシャーをかける。そしてアラスカは期待どおりの行動に出たとたん、何者かに射殺される。主人公は、自責の念を抱える。こんなことなら、おとなしいままでよかったのに、と。
転機は、その日、ゾンビのアラスカを回収し、数日かけた鎮魂、慰霊の儀式を完成させたことによって、主人公は初めて無心になり、現実世界に復帰する準備ができたその日の夜のこと。前から知らされていたかのように、合図であるかのように銃声(電撃療法?病院の玄関口のブザー?)が鳴ると、夢から覚めていた主人公は、自分で身体を起こしベッドを降りて、病室を抜けだし、自分の脚で廊下を歩き、階段を一段一段降り、病院の扉を自分の腕でこじ開けた。かつては、目をつむるだけで、自由に抜け出し蛇のようにホテルにたどり着けたのに、今は、わざわざ自分の身体で移動する。
途中の廊下では、主人公、月光に照らされた何かを見つけ、駆けだす。両脚にバネがとおったように、跳ねるように両脚を繰り出す。脳からの入力に身体もキビキビ反応する。飛びつく。拾われるのを待っていたかのような物とは、主人公自身の薬指、眼球、爪、歯、左脚。それらを次々に回収する。これらの器官は、主人公が現実世界の身体に復帰し、不用となりバラバラとなった自分のゾンビ肉体の幻想であり、それらを丁寧に回収し「鎮魂」や「慰霊」をすることによって、自分の現実の身体に統合する儀式を完成させた。主人公は、身体感覚を完全に取り戻した。
さらにそれら幻想の器官に記された効率主義、完璧主義のタトゥーの言葉は、両親らの呪いではなく、両親らの愛情(祈り)であったことを主人公は悟った。相手の個性を考慮せずに、愛情、期待を押し付け、相手に悲劇をもたらすという構造は、主人公がアラスカの活躍を期待し、死にいたらせたことと同型である。両親の過度な介入、逆にネグレクトによって傷ついた主人公の魂は、生き返った。さあ、彼らとの「和解」が成った。主人公はもはや現実世界に復帰する決意を固めている。主人公の頭の中では、虚構世界の主人公から発せられた、私や両親の過ちを繰り返さないで、とのメッセージが静かにこだましているだろう。
その後に続く妄想も、「メルヘンな音楽」であり、「警告音」、「シンセサイザーの不穏なメロディ」、「猟奇的な音楽」、肥大したハープシコードの独演、ではない。「アイスクリーム・トラック」も楽しい感情を呼び起こす。
主人公の明滅する腕によってこじ開けられた病院の扉の先は、「プラグの抜かれた丘」。もう夜は明けている。ヘリコプターが墜落し、熱風が襲い、ガラスの破片が砕け散り、炸裂するプリズムの中で、怪我一つしない主人公は歓声をあげ、拍手し、子どものように笑う。ヘリコプターの墜落、熱風、ガラス片、プリズムは幻想であり、主人公を抑圧するもの、親や社会の権威の記号である。主人公が初めてヘッドセットを着用し、初めて見た虚構世界のシーンがそれであった。歓声をあげ、拍手し、十数年ぶりに安心して子どものように笑う肉体はもはや身体感覚を取り戻した現実世界の主人公の身体である。墜落したヘリコプターが幻想であることを、主人公の身体は、脳は知っている。今や現実世界の主人公は幻想を笑い飛ばしている。決して、主人公が虚構世界に執着しているのでもなく、ゲームがロールしているのでもない。
「プラグの抜かれた丘」は、仮想空間の最果てに住み、この世界(仮想世界)がどのように途絶えているかを知悉し、それが破綻することを予言する、「人間性らしく(イヌクティトゥット)」を研究していた人物が作った場所である。時は12月、主人公がヘッドセットを付けてから十日余り。「プラグの抜かれた丘」の「マップ」はとうに現実世界につながっていた。現実世界への再生の場として、ゾンビの世界から現実世界へ転生する場所として、これ以上相応しいものが他にあるだろうか。いや、ない。
なぜ主人公は、虚構の世界である、すでに9年間住み慣れた「口唇期ホテル」に、安住の地を見出したその場所へ、向かわなかったのか。主人公が向かった先が、「口唇期ホテル」ではなく「プラグの抜かれた丘」であることはどう説明するのか。
芸術至上主義者らは、病室を抜け出したことからして幻想であるというなら、それこそ、それらの者共の幻覚、なのではないのか。すでに主人公の身体も、思いも、幻想のベクトルも、ゾンビの世界から現実世界へ変わっているのである。ロケットランチャーさえ遠方からの「祝砲」である。
前から、「数十年ぶりのほんとうの心底からの安心のなか」にいる主人公は、もはや誰からのプロンプト(指示)も受けない、見たいものだけを見る、と思い定めている。
主人公が見た、爆風にあおられても大丈夫なアドバルーン、駆け抜けるネズミの一家は、今もなおも主人公を見舞う幻想であるが、前者は、消費社会の安定した日常習慣の、後者は、子だくさんの生命力の、記号である。
それに対して、主人公が最後に見た、アラスカ(夫のゾンビ)や自分自身のゾンビの肉体の「鎮魂」や「慰霊」の儀式を終えて現実世界に住むと思い定め、もはや完全に身体感覚をとりもどし、病院の玄関の前に立ち尽くす主人公が最後に見た「わたしをようやく迎えにきたあなたのすがた、すまなそうにわらうあなたの顔」とは、連絡を受けてそこに泰然と立ち現れ、夜明けの光に照らし出された、かつてと同様の佇まいを見せる、現実の手触りを持った、間違えようのない、8年ほど前に現に彼女が選んだ男の顔そのもの、でなくて何であろう。
4.私の解釈が、ハッピーエンドだ、ハリウッドの娯楽映画の結末だと馬鹿にされても構わない。笑われてもいい。
そも、夫婦は、恋愛結婚のみならず、お見合いでも、親が決めた、許嫁同士の結婚でも、略奪婚であっても、当事者の意思決定が基本である。これに対して、親子関係は、当事者の意思で当人同士が関係を結んだのではない。
どのような仕事に就くかも、本人の意思に基づく。
我々は、主体性(agency)をもって、協力し合って、社会をよりよいものにする活動をする必要がある。それは、各個人の、自分の持って生まれたものをどう活かすか、思案のしどころである。人生のパ-トナーを誰とするか、どう獲得するか、努力のし甲斐のあるところである。運もあろうが、各人の心構えの問題でもある。今、効率主義、完璧主義一辺倒の、個人の個性を見ないAIによって、それらが歪められている。
夫婦も、国家も共同幻想である、との物言いは昔からあった。生命と物質との間に境界はない、との最近の学説によれば、我々の意識さえ幻想である。しかし、この世に生を受け、ただ一度だけ生殖の機会を与えられ、必ず滅することを定められたこの肉体を、しっかりと受け止めよう。お日様とともに生きよう。我々の肉体は、星屑なのだから。
ソフィア・ローレンの演じる洗濯女の選んだ男が、彼女のために国王となることを断念したことを、ナポレオンは、あんな男を国王にしなくてよかった、と一人ごちるのが映画(邦題「戦場を駆ける女」1962年日本公開)の落ちであるが、ナポレオンを相手に啖呵を切る彼女の肉体に宿った高貴な魂を寿ぎたい。たとえこの先人類が滅亡しても、彼女の啖呵が、生命力の爆発が放った光は、宇宙に向け輝き続ける。
5.現実世界の夫の救援は間に合ったのか、間に合わなかったのか。神のみぞ知る。
芸術至上主義者は、現実世界の夫は来なかった、主人公が夫の顔を見たとしても、それは幻覚である、現実の夫であっても主人公の救済に間に合わなかった、と解釈する。
そうであれば、夫は、よくて「フランダースの犬」の、大聖堂のルーベンスを満足げに見ながら、天に召される主人公ネロに寄り添う老犬パトラッシュである。しかし待て、芥川賞受賞作品が、「フランダースの犬」の焼き直しでいいのか。
芸術至上主義者は、ゲーム世界での幸せを、美しい不条理、狂気による救済、破滅の快楽、と賞賛する。しかしそれは神の御業であればこそ、主人公の悲劇は、他の誰かが、あるいはAIが出力したプログラムの中のことであって、いわば管理された不条理である。安全圏にいる者のエンタメではないか。真の芸術は、現実世界での不条理に直面した人間を描くものではないのか。芸術至上主義者は、他人の用意したプログラムに乗っかって、虚構の不条理を美しいと言うだけの、醜いゾンビそのものではないか。それは、芸術とは、対極に位置する。
本作品が、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかは、読者による。本作品は、読者の合わせ鏡である。
私は、夫の救援は間にあった、方に賭ける。身体の力を信じる。
6.救援に駆け付けた夫と主人公は、どのような会話を交わすのだろうかと想像する。
いきなり大声で笑いだす主人公を見て、夫はどう思ったであろうか。うつろな目を空に、地面に向け、やがて夫の姿を認め、その顔を見つめる主人公のうつろな、しかし確かに援けを求めるその目を見て、夫はどう思ったであろうか。エリ・ヴィーゼルの「死者の眼」(死んだのが私であって、何故、あなたではないのか、と問う)に射すくめられて、夫は何を思ったであろうか。いかん、いかん、私(大塚)の想像が、先走りしすぎている。
主人公らは、このあと、どのような人生を歩むのであろうか。時に主体的に生きることに目覚めた夫の援助を得て、時に現実世界に生きると思い定めた主人公が夫を援助して、二人で助け合って、掃除機の発明と掃除婦の失業の問題について、再び、今度は対等の立場で議論を始めることだろう。家族には、賃金という労働の等価交換を超えた価値があることを再確認することだろう。夫は、「演奏旅行」で得た知見をユーモアを交え、披瀝するのではないか。主人公は、時にジョークで返し、ゾンビ回収で身に着けた集中力を発揮して、心を込めて丁寧に、世界を美しく保つ営みに生きていくのではないか。
夫のちょっとしたジョークに、主人公は、ふざけるな!と怒りを覚えることもあるだろう。そのとき、彼女の身体には、温かい血が巡り、喉が震え、体を震わせるかもしれない。しかし、しまいには笑い出さずにはいられないだろう。これこそ、身体の力である。
それは単なるハッピーエンドではなく、むしろ茨の途であるかもしれない。夫との再会は、安らぎではなく、チャレンジの始まりにすぎない。のろくさいかも知れない、不完全かもしれない。しかし、主人公らが、必要とし必要とされる者同士が、選んだ途に違いない。
主人公は、現実世界において、予測不能で愛らしい夫と、自分たちの人生を探し、悩み、試行錯誤するというスリリングなゲームを手にしたのであるから、もはや虚構のゲームの世界に戻ることはない。
読者は、翻って、自分は自分の人生を生きているだろうかと、反省させられる。
本作品は、したがって、読者の数だけ、違った結論があり得る。
「ゾンビ回収婦」の物語が終わるところ、我々の物語が始まる。
7.要点(ポイント)は、こういうことである。奥さん(ご主人)を大事にしよう。
私は、これから、毎日、映画の中の主人公のように、妻に向かって甘くささやくことにしよう。
「愛されてるよ。」
8.洗濯機の回転が止まると、洗濯物が姿を現してきた。本作品は、現代的なゲームやAIの華麗な舞台設定に目を眩まされるが、その核心には、親離れと個人の自立という昔から繰り返し語られてきた古典的テーマが鎮座ましましている。愛情の押し付け(呪縛)が、AIの非人間性を先取りしていた。小砂川チトには、一杯喰わされたぜ。
御馳走様。