2025.05.18
長谷川眞理子著「私が進化生物学者になった理由」(2021年)を読む ―進化生物学における「群淘汰」の今―
弁護士 大塚嘉一(おおつかよしかず)
1.どうしてこの人(著者=長谷川眞理子)は、いつまでも「利己的遺伝子、利己的遺伝子」と騒いでいるのだろう、と私は永年、不思議に思っていた。それが、本書を読んで、疑問が氷解した。著者には、進化生物学の主要な柱である集団遺伝学の素養がないのだ。自分でも認めている。本書83ページに、著者の在籍する「理学部人類学教室では、集団遺伝学の講義があったが、それは集中講義で、やたら数式だけが出てきて、コンセプトがさっぱりわからなかった」とある。後述するが、リチャード・ドーキンスの著書「利己的遺伝子」について、正確に理解していないのも、この弱点に由来する。
生物大好き少女が、生物学の教授になるというストーリーは、愛らしく、ロマンにあふれ、素敵なものだ。しかし、著者が社会に垂れ流した害悪が、それで帳消しになるものではない。読書界において、同じような立ち位置にいる竹田久美子はまだいい。学者崩れの素人で、学会の大物をバックに、思い付きを垂れ流しているだけだと、みんな知っているから、その本もエンターテインメントとして読まれている。しかし、著者は学者だ。一般人は、へー、進化生物学ってそういうもんなんだ、隣接諸科学の専門家の中には、進化生物学を名乗る教授が言ってるんだから、そういうものなのか、と思う者もいるかもしれない。
2.進化論には、歴史がある。進化論は、ダーウィン「種の起源」(1859年)に始まるとされるが、進化を論ずる者は、古今、あまたいる。生物学においては、その後1940年代にメンデルの流れをくむ集団遺伝学の知見が加えられてネオ・ダーウイニズム(総合進化説)が生まれ、かつてのコンラート・ローレンツ流の「種の存続本能」を主張する生物学者はいない。
生物の利他的行動について、ジョージプライスの発見した数式にヒントを得たW・D・ハミルトンが、血縁選択(包括適応度)の問題として数理的に解決して以来、進化生物学の骨子は定まった。
1970年代には、E・O・ウィルソン「社会生物学」(1975年)、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」(1976年)が出版され、一般の注目を集めた。特に後者は、遺伝子が生物の進化の主役であって、生物の体は(人間も含め)、その乗り物にすぎないと主張し、世界的なベストセラーとなった。いずれも、ハミルトンの考えを数式ぬきで表現した本である。
ドーキンスの「利己的遺伝子」も、既に発表から50年以上が経過し、若い人の間ではそれほど認知されていないかもしれず、その革新性を知らしめるものとして、一定の意味があるのかもしれない。しかし、それだけの理由で、誤解を放置していいものではない。
3.現在、世界では、進化の単位は、種まで大きくはない集団ではないか(グループ選択説)、遺伝子と文化がともに進化するのではないか、が活発に精力的に議論されている。しかし、日本の学界では無風状態である。
著者は、「群淘汰」を、個体は「種の保存」のために行動するという理論だと理解しているようであるが(本書74,75頁、111頁)、現在では、そのような理解は一般的ではない。
リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」は、進化生物学を世に知らしめるについて、大きな役割を演じた。しかし、読者に、進化の単位は遺伝子である、生物は遺伝子に操られていると誤解させてしまった。ドーキンス自身は、包括適応度の問題であることを知っていたが、マーケッティングを考えたうえでの作戦である節がある。後に、ドーキンス自身、名称は「利己的遺伝子」でも「協力的遺伝子」でも、どっちでもよかった、と述べている。
今でも、専門家同士が、「利己的遺伝子」の名称を使い続けるか、誤解を招くので使わないようにするべきか、激論が繰り広げられている。
著者の立場からは、近時発表された、進化論と優生学との関係を暴いた憂鬱な本(千葉聡「ダーウィンの呪い」2024年)を理解することも難しいであろう。
4.グループ選択を主張し、進化生物学の見取り図を描く本として、S・D・Wilson 「UNTO OTHERS」(1998)がある。邦訳はまだない。著者は、罪滅ぼしに、同書を翻訳、出版するべきだ。
自分の勉強にもなるだろう。