2014.01.05

大塚 嘉一

「永遠のゼロ」と弁護士

1.百田尚樹著「永遠のゼロ」が評判のようです。平成18年に出版され、昨年映画化されました。ゼロとはゼロ戦のことです。

読んでいない方のために、ちょっとだけ粗筋をご紹介。司法試験になかなか受からない青年が、ある切っ掛けから、ゼロ戦による特攻で死んだ自分の実の祖父のことを調べ始める。当初、インタビューに応じてくれた人々からは、命を惜しむ臆病者だったと口々に言われるが、さらに調査を続けると、実は…、という話です。

私は、小説というものを本気で読んだのは、数年ぶりです。そのためでしょうか、感動しました。傑作だと思います。

手練れの小説読みからの評価は、となると、かなり厳しいでしょう。ストーリ構成が浅田次郎の壬生義士伝に似ている。インタビューに応えて昔を語る人の、言い回しがどれも同じよう。エンディングが、技巧的に過ぎる。などなど。戦記物としても、類書を読み込んだ読者にとっては、新しく得られる知識は、それほどないでしょう。コピペかとも思える部分もあります。しかし、太平洋戦争の原因、戦争の経過などが要領よくまとめられています。ゼロ戦の魅力について、上手に紹介しています。

これからは、ネタバレとなる部分もあるので、本書を楽しみたい方は、読んだ後で。

2.同書の最大の魅力は、特攻隊を日本側からだけではなく、アメリカ側からも描いている点です。主人公が最後に米軍の軍艦に突っ込みますが、爆弾は不発に終わります。主人公の遺体を、艦長が、他の兵の反対を押し切って、敬意をもって水葬にふす場面が最後にエピローグとして語られます。

その際、主人公のポケットの妻子の写真をもとにもどさせる場面がありますが、それは、本書の中ほどで、逆に主人公が、日本軍に撃墜されたアメリカ兵の胸ポケットにあったその妻の写真をしまわせる場面と、対称的な構造を成しています。

戦争が、相手に対する憎悪だけで成り立っているのではないことを表現しています。

このエピローグをもって、本書は、単なる反戦でもない、まして戦争賛美でもない、人類に普遍的な傑作となったのです。

ニーチェが、「星の友情」で表現したことです。争いが、我々を超えた法則によって生じることを認識した者同士は、互いに相手に敬意を持ちながら戦える、と。マックス・ウェーバーが、「職業としての政治」で主張したことです。利害が対立し、それを解消することに失敗したから戦争に至ったのであって、それ以外の言い訳を口にするのは恥ずべきことである、と。

本書では、卑怯者、臆病者と非難されても家族のもとに帰ると固く決意していた主人公が、なぜ、最後に特攻したか、その理由が明確には述べられていません。読者の想像に委ねられています。

自分の代わりに生き残ることになった者が、妻子の面倒をみてくれると考えたのか。

ここで頑強な抵抗を示すことで、後の講和の際の条件を有利に導こうとしたのか。そして、家族を含む日本国民の幸を望んだのか。

さらには、戦争が終わったあとの日米双方の人々の幸福まで主人公の視野には入っていたのでしょうか。

3.祖父を調べることになった青年は、司法浪人、すなわち司法試験の受験生です。青年が祖父と思っていた人物は、実は、祖父の代わりに生き残った者で、後に祖母と結婚したことが、終盤になり、わかります。その義理の祖父は弁護士です。

弁護士は、市民の間の紛争を解決することを仕事としています。法律上の争いを、法に則り、解決すべく努めます。戦争は、国家間の争いですが、それは紛争の解決の手段でもあります。クラウゼヴィッツが、戦争は政治の延長であると言うのは、その意味です。国家間の紛争を解決する基準は、国際公法や慣習などありますが、その執行機関がありません。それが国家と、国際社会との違いです。ですから、紛争がこじれると、戦争、すなわち実力行使となります。

国際社会と同様、法の支配の完全ではない領域があります。犯罪です。犯罪者は、利己的に暴力を行使し、相手を騙しなどします。法は、後から、その修正に努めるだけです。

ですから、国民は、法治主義を実のあるものとするため努力するだけでなく、同時に、国内においては、犯罪をなくすよう、国際的には、戦争をなくすよう努力する必要があります。

弁護士も、軍隊も、紛争解決を目的とするという点で、共通します。

著者が、青年を司法試験の受験生とし、生き残った者を弁護士と設定した意味は、そこにあるに違いないと思います。

4.弁護士は、己の仕事が真に世のため、人のためになるよう努力することは当然です。しかし同時に、この世界の紛争の一部しか担当していないことを自覚すべきです。

そして、己の仕事が、あらゆる紛争の解決の手段となるような社会の実現に努力すべきです。それは、弁護士の日常の業務とはかけ離れた仕事かもしれません。しかし、世のあらゆる紛争が、暴力にではなく、言論によって解決する社会の実現に向けて、努力しなければなりません。弁護士の日々の業務も、そのような意識によって支えられてこそ、普遍的な仕事となりうるのです。

暴力の意味を、真剣に考える必要があります。

単に、死刑反対と唱えるだけ、単に、戦争反対を説くだけでは、信仰告白にすぎません。自分の言動が、あらゆる紛争を解決する手段となる妥当性を備えているか、を考える必要があります。単なる信仰告白でない、実効性のある解決方法を探り、提案する必要があります。場合によっては、悪魔の手を借りる必要もあるでしょう。正義は、条件によって、さまざまな衣装をまとう、ということです。そのことに思いが至らない人は、黙っていてほしい。死刑問題や憲法9条をめぐる問題についての日弁連や、各単位会の活動をみて、そう思います。

ゼロ戦に、魅力的な曲線を見出しながら、いろいろなことを考えます。