2007.02.20

大塚 嘉一

なぜ菊地総合法律事務所なのか

1.菊地弁護士がいないのに、なぜ菊地総合法律事務所なのか。よくある質問です。

当事務所がその名称を菊地総合法律事務所としたのは、平成5年6月です。それまで私は、勤務弁護士いわゆるイソ弁でした。イソ弁とは、居候弁護士の略称だそうです。簡単に言うと、給与をもらっている弁護士です。アソシエイトというのは、少し格好良く言ったものです。

これに対して、給料を払う方の弁護士が、経営弁護士、ボス弁、パートナーとか呼ばれます。共同事務所の共同経営者がパートナーの本来の意味でしょう。

弁護士の仕事は、頭がいいだけでも、知識があるだけでも、足りません。経験がものをいう部分が確かにあります。弁護士は、勤務弁護士として、徒弟制度のようにして、それを学ぶのです。弁護士になって最初の事務所が大事だとはよく言われることです。

2.当事務所は、当初、菊地弁護士の個人事務所として出発しました。その後、高野弁護士が勤務弁護士として事務所に加わりました。やがて菊地弁護士と高野弁護士とのパートナーシップとなり、同時に、私が勤務弁護士として参加しました。

菊地先生は、それまで自宅を事務所とする弁護士が多い中、自宅とは別に事務所を設けたように、新しい試みを積極的に取り込みました。事件の処理は、落ち着くべきところに落ち着く、いわゆる筋を読んだ解決とおのずとなっていました。東大の法学部の卒業のはずなのに、フランス語の本が書棚にありました。

高野先生は、アメリカに留学し、刑事手続きを会得して帰国しました。もともと刑事事件は好きだったのですが、彼の地で、ますます拍車がかかったようです。帰国後は、マスコミに大々的に報道されるような刑事事件の難事件に嬉々として取り組んでいました。

両先生とも、勤務弁護士に対して、自由にやらせてくれました。私は、両先生から任された事件はもとより、求めて各種の弁護団に積極的に加わり、さまざまな事件を手懸けました。その際、私の導きの灯となったのは、菊地先生の大局観とバランス感覚であり、高野先生の権利主張の精神とその技術でした。それを獲得することが当時からの私の目標であり、それは今も続いています。

3.平成5年6月、両先生からお誘いを受け、私も、パートナーとして、事務所に参画することになりました。理想を持った弁護士たちが、それぞれの分野で、その才能を発揮できるような、そんなプラットホームとなるような事務所を作ろう、というのが三人の「桃園の誓い」でした。そのときの決意はといえば、「我ら三人、生まれた日は違っても、死ぬときは同じ」。気分はもう三国志です。そこで名称を総合法律事務所として、それに創始者の名を冠することにしました。菊地先生は、いわゆるネーミングパートナーとなるわけですが、高野弁護士と私とを、全く対等に扱ってくださいました。

しかし菊地先生は、その後間もなく病を得、志し半ばで斃れました。菊地先生がもう少し長生きしてくれたらなあ、とは今でも思うことです。その際、菊地総合法律事務所の名称を変える必要はないと、高野先生と私とで確認するまでもありませんでした。その後、高野先生は、法科大学院の教授となりました。私は、才能ある後進を育成するという点で、先の当事務所の理念に一致するものがあると思い、喜んで送り出しました。事務所の名称を変えることを考えたこともありませんでした。

4.名前には、それを命名した者の思いが込められています。菊地総合法律事務所には、その思いがいっぱい詰まっています。