2009.04.10

大塚 嘉一

裁判員に守秘義務を課すのは憲法違反だ

1.昭和38年、アメリカを訪れたある日本の裁判官に、その職業を知った一般のアメリカ人の婦人が、熱っぽく語りました。「陪審制度をどう思うか。」、「陪審こそ民主国家アメリカの誇りである。」と。

その裁判官の名は、矢口洪一。

臨時司法制度調査会欧米視察団の一員として訪米した際のエピソードです(「最高裁判所とともに」)。

かつてミスター司法行政と呼ばれた矢口洪一最高裁長官ですが、昭和63年から、陪審制の調査のために、欧米に調査団を送り込みました。

その調査は、今年(平成21年)5月21日から始まる裁判員制度に、影響を及ぼしていないはずはありません。

ちなみに、派遣された調査団の一人が、昨年(平成21年)12月25日、最高裁長官に就任した竹崎博充判事です。裁判員制度をにらんだ任命と言われています。

2.昭和58年から平成元年にかけて、死刑判決を受けた被告人が再審無罪を得た事件が、財田川事件、島田事件、松山事件、免田事件と、立て続けにでたことをきっかけに、陪審制を復活させようという運動が全国で盛り上がることになりました。

対外的には、アメリカの構造改革要求という外圧による規制緩和、事前の行政指導ではなく、事後の司法的規制への方向転換もありました。

それらの動きを受けて、小渕内閣は、平成11年7月、司法制度審議会を発足させ、戦後50年以上も手付かずであった司法改革に乗り出しました。裁判官の人事(法曹一元)、法曹教育と国民の司法参加が主な議題でした。

国民の司法参加については、陪審裁判の復活がもっぱら当初のテーマでした。最高裁は、陪審裁判については、強く反対していました。ところが司法に国民の参加を求める世論には抗しがたく、評決権のない参審制などを打ち上げましたが、強い批判にさらされ、修正を余儀なくされました。

その結果誕生したのが、最高裁も積極的に推進する今般の裁判員制度です。

最高裁の公式の見解では、今でも、日本の司法制度にはなんら問題はなく、ただ、新たに国民の司法参加を通じて国民の司法に対する信頼を強めるために裁判員制度を導入する、というのです。

3.陪審裁判の意義については、アメリカの陪審裁判を見た、フランス人のA・トクヴィルが、これを高く評価しました(「アメリカの民主主義」)。市民の成熟を促す教育的意味が大いに認められる、というのです。

イギリス人のJ・S・ミルも、トクヴィルに賛同し、イギリスの陪審裁判が、イギリス人の民度を引き上げたことを認め、それは古代アテネと同様であると言います。

古代アテネでは、イセゴリアが行なわれていました。イセゴリアとは、自由に政治に参加し発言する権利です。イセゴリアは、単なる権利というよりも、自分たちのことは自分たちで決めるという生き方(ウェイ・オブ・ライフ)そのものでした。 イセゴリアの源流には、さらにソロンによる個人責任の「発見」があります。

4.裁判員法は、裁判員に対して、評議について一般的に守秘義務を定めていますが、大いに疑問です。

評決にいたるまでは、裁判員はその事件について外部の者に話すことは一切禁止し、ただし評決後は、評議をも含めて、自由に話すことが許されるとすべきです。もちろん、たまたま知りえた個人のプライバシーや名誉を侵害するような発言は、一般法によっても処罰されることとなります。

裁判員制度が、日本の刑事手続きを活性化させるのみならず、日本人一人ひとりの創造力を引き出す契機となることが期待されている以上、裁判員に自由に発言する機会を与えるべきです。

そもそも人は、その経験したことを自由にしゃべることができるのが、その本性に合致します。個人の尊厳に由来する権利です。

何より裁判員制度は国民の司法参加の重要な部分です。

国民の国政に参加する権利は公的な領域で自己を開示する重要な権利として国民の幸福追求権の内容をなすと考えられます(ハンナ・アーレント「革命について」)。

さらに評議の内容を話すことはイセゴリアとして国民の権利と認められるべきなのです。

裁判員が、後に評議について公の場で発言することには、たんなる表現の自由を超えた意味があります。

それゆえ裁判員に広範囲に守秘義務を認める規定は、日本国憲法13条に違反する違憲無効の規定です。

評議における裁判員の発言の自由を確保する、裁判員の身の安全を図るというのが守秘義務の理由とされます。

しかし裁判員個人の情報が漏れることが心配であるなら、裁判員の名をずっと匿名にしておけばいいのです。映画「12人の怒れる男」のハイライトは、実はラストの場面です。陪審員同士、評議中はお互いを何番、何番と呼び合います。そして裁判が終わって裁判所を出たとき、陪審員の一人と主人公が、自己紹介し合います。まるで初対面であるかのように。そして二人は、爽やかな表情で裁判所をあとにします。

評決後の裁判員の言動が、評議における裁判員の発言を萎縮させるおそれとか、裁判員の身に対する危険などについては、その立法の前提となる事実すなわち立法事実が明らかではありません。

守秘義務の規定は、「おそれ」であるのに対して、その結果の実現をまたずに守秘義務違反を罰するのは、その範囲が広範に過ぎ漠然としています。そのような漠然とした恐れで処罰されることは、国民の司法に参加する権利という重大な権利に対する保障に欠けると言うべきです。

現実的にも、萎縮のおそれであるとか、また身体に対する具体的危険などが発生していない段階で、これを、刑罰を加えてまで禁止する必要があるとは、到底考えられません。

裁判員が、評議の様子を国民に伝えることが、国民の良識を育て、その水準を上げる教育的効果を期待されているのであって、そうであればこそ、国民の司法に対する信頼が高まるのです。最高裁自身も、今回の改革の目的に国民の司法に対する信頼を掲げているのであって、裁判員に守秘義務を課すことは大いなる矛盾です。

実務上も、裁判員制度において、裁判員は、裁判官からさまざまな説示を受けるはずです。無罪推定の原則について、証拠の価値について。それは、裁判員の意見を誘導する可能性が常にあります。もし違法な、そうでなくとも不適切な説示が行われたとき、それが明らかにされていなければ、控訴などの是正の機会もないことになります。また説示のみならず、裁判官が裁判員の意見を聴こうとしていたか、威圧的であったかなども、これからの裁判員制度を考えるうえで重要な情報です。

裁判員が自由に語れないとなると、刑事法を研究している研究者は、重要な第一次資料にアクセスできないこととなります。学問上も大きな損失です。

ジャーナリストに対しても同様です。裁判員が評議について自由に語れないのであれば、ジャーナリストは、国民の知る権利にどのように応えればよいのでしょうか。

裁判員制度は、実施の三年後に見直しをすることになっています。その見直しのときに参考とするべき情報は、誰がどのように集約するのでしょうか。

5.仮に、ある人が裁判員に選ばれ、評議や評決のあと、その内容を話したというだけで事件となり、処罰され、最終的に最高裁もそれを認めるのであれば、最高裁は国の機関というよりも、自身の利害を墨守する「中間団体」(河合幹雄)と堕するでありましょう。なぜなら、最高裁は、国民が主権者であるという憲法秩序を理解していないということに他ならないからです。

最高裁も問題点には気がついており、裁判員に対する共同記者会見などを予定しているようです。マスコミは、正面から、この問題を取り上げず、最高裁と協議をしているようです。このようなマスコミの自主規制は、マスコミの国民に対する裏切りにほかなりません。

今回の裁判員制度は、最高裁が実質的に職業裁判官による裁判を維持し自己保全のため国民の取り込みを図り、それが成功するのか、それとも、国民が、最高裁をも含めた裁判所を変える契機とするのか、天下分け目の関が原です。

歴史上、そう何度もあるチャンスではありません。

裁判員の貴重な経験を、その悩みを、その負担を、国民全体が貴重な財産として受け止められるかが、裁判員裁判の存廃の、日本の司法の、日本の民主主義の、そして21世紀の日本を決めることになります。

ただ一度きり生殖の機会を与えられ、そして死すべき運命にある人間が、なぜ人を殺し、そして殺されなければならないのか。裁判員は被告人に対して死刑の判断をすることもありえます。裁判員裁判は、対立する主張を考慮して紛争を公正に解決する手続きに国民が参加することによって、国民が、正義とは何か、責任とは何かなど、公共的な感覚、意識を身につける重要な役割を果たしうるのです。生と死を、そして人間の業を考え抜き、評議を通じて争いを解決しようと議論を重ねた裁判員は、我々日本人の宝です。

評議そのものは、密室で行なわれますが、評議の過程や内容が明らかにされることは、やがて公共の場での討論を活性化し、裁判が公共的役割を果たす重要な条件となります。それは、我々国民の自己統治の能力を必ずや高めるはずです。

評議の様子を公表した裁判員に対して、司直の手が伸びたとき、裁判員の守秘義務撤廃を求める国民運動が全国的に大々的に繰り広げられることを、私は、信じて疑いません。

その経験を次代に活かすという希望を、私は国民の一人として、裁判員とともに分ち合いたいと思います。

6.ここ数年のうちに、竹崎博充最高裁長官が、矢口洪一元最高裁長官からのミッションをどのように受け止めたのかが、判明します。