2020.02.10

大塚 嘉一

裁判員制度 量刑について学ぶ場ほしい 弁護士 大塚嘉一(おおつかよしかず) 初出:「私の視点」朝日新聞 2013(平成25)年12月13日

今年6月に続き、10月にも東京高裁が、一審の裁判員裁判で出された死刑判決を覆して無期懲役の判決を下した。昨年2月、最高裁は、一審の裁判員裁判の事実認定を控訴審が覆すには慎重にするべきだとの判断を示した。事実認定も量刑も、国民の常識を司法に反映させるという裁判員裁判の趣旨からすれば同じだろう。一連の東京高裁の判決は、国民の目に司法の迷走と映ったのではないか。

日本の裁判員裁判は、裁判員が有罪無罪の事実認定だけでなく、被告人にどのような刑を科するかの量刑まで担当する点で、世界的にユニークな制度である。

例えば米国の多くの州では、陪審員には、有罪無罪の判断をさせるが、量刑は裁判官の役目となっている。事実認定で陪審員に求められるのは、検察官の提出する証拠から有罪と認められる程度の立証がなされたか否かを判断することに尽きる。これこそ国民の常識が最大限発揮される場面である

一方、量刑は、社会正義、公平の要請、犯罪と刑罰の本質、被害者や遺族の感情、被告人の更生の可能性、行刑の実情、など複雑な要素の考慮が必要である。このため裁判人制度推進派でも、裁判員に量刑判断させることを問題視している人がいる。

しかし私は、日本では裁判員に量刑の判断を担当してもらうことに重要な意味があると考える。裁判員が、量刑に不安を覚える、その「おそれ」にこそ、裁判員に量刑を判断させる意義があるのだ。

「量刑相場」という、少し品がない言葉がある。裁判官は、判例を検討し、他の裁判官の裁判を参照し、職業団体の常識として量刑を考えてきた。現場の裁判官の「暗黙知」とも言えよう。裁判員には、その職業裁判官の常識による量刑を見直すことが期待されているのであり、裁判員が自由な量刑感覚を裁判官にぶつけることに意味がある。

最高裁は、事案ごとのデータベースで量刑の目安を示すことを考えているようだが、限界がある。事件の「機微」が見えないからである。米マサチューセッツ州では、有罪判決後、裁判官が、量刑のため保釈係官、ショーシャル・ワーカー、刑務官、家族、被害者などから聴聞して量刑判断することになっている。

私は、量刑センターの設立を提言したい。そこでは、事件の詳細とともに、量刑がデータとして蓄積されているのみならず、刑罰行政の知識や経験も学べるように、人材や施設が整えられている。裁判員のみならず、裁判官の各種疑問にも答えられるよう準備する。裁判官に対して同センターでの研修を義務付けるのも一考である。