2017.10.13

大塚 嘉一

原田國男「裁判の非情と人情」を読む

1.元裁判官による一般人向けのエッセイである。

裁判官のエッセイと言えば、倉田卓次の「裁判官の書斎」シリーズが思い浮かぶ。その内容は、博覧強記というよりも、狂気を感じさせるものであった。さすが「家畜人ヤプー」の著者であると(ご本人は否定していたが)、納得させるものがあった。

それに比べると、本書及び本著者には、小物感が漂うのは否めない。

2.本書、本著者の最大の難点は、庶民を愛すると言いながら、その実、庶民を馬鹿にしている点である。

家庭の主婦に、「あら。裁判官って、非情な人が多いのかしらと思ったら、人情味のある人もいるじゃないの」と思ってもらうのが、著者の狙いだとしたら、それは大方成功している。

文章も、達意の名文である。さすがは、日本エッセイスト・クラブ賞受賞作である。

しかし、この21世紀に、元判事が出す本が、そのようなものでいいのだろうか。

3.著者は、本書は、現行制度を批判するものではない、と断言している。そのとおりの内容である。

裁判員裁判に関連して、素人裁判官である裁判員は、専門家の判断を尊重するべきであると主張する。そう明言するわけではないが、結局、そういうことを言っている。

しかし、そもそも裁判員裁判を始めたのは、専門の裁判官の専門バカさ加減を揺さぶるためだったのではないか。裁判官が、素人のたわごとも、無茶ぶりも全て聞いて、そのうえで、法律の専門家として、どこまで対抗できるかを試してみようということであったのではないか。審議の過程で、「裁判官の化けの皮がはがれるかもしれない」と指摘されてもいた。

裁判員裁判の量刑を、高裁そして最高裁が、大した理由もつけずに、ひっくり返すようなことをしていれば、やがて、民意は、裁判員裁判から離れていくのではないか。もっとも、それこそが、竹崎元最高裁長官の狙いだったのかもしれないが。

仕事や私生活を犠牲にして、一生懸命に量刑を考え、その揚句に、専門の裁判官に覆されてしまう裁判員の無念や絶望感は、察するに余りある。太平洋戦争中に、補給を考えずに前線に送られて餓死した日本兵のことを思い起さずにはいられない。日本の組織は、上に行けば行くほどバカだ、とはよく言われるが、裁判所もその例外ではないようだ。

著者の現役時代、裁判員の意見をよく聞こうとしたであろうか。その意見の背景にある考えを理解しようとしたであろうか。素人と専門家の間に溝があるなら、それを架橋しようとしたであろうか。日本人や人類に共通の問題を見出したであろうか。何か、将来のためになる種をさがそうと努力したであろうか。そうではなくて、先例(これは専門家の意見の集約である)を、一般人に押し付けようとした、あるいは結果的にそうなってしまってはいないか。そうなら、著者の罪は深い。いくつか無罪判決を出したくらいで、その罪を免れるものではない。

4.私は、ここが人生の勝負どころと臨んだ司法試験で、失敗を重ねた。どの問題にも必ず正解があるという状況になじめなかった。20年で時効取得と聞いて、何故20年なのかと疑問に思い、国会図書館に足を運んでしまうような人間は、なかなか合格しない。

司法試験に合格した後も、「リーガルマインド」という言葉を耳にすると、反吐が出た。専門家の間での暗黙知と言えば、聞こえはいいが、仲間内で分かったふりをするだけの場合も多いのではないか。あるいは、権威のいいなりか。

5.私は、法哲学者の嶋津格の「発見共同体」という考えが好きだ。裁判こそ、発見共同体でなければならない、私は、そう思う。この度の裁判員裁判は、成功すれば、日本人、いや人類に貢献できる偉業ともなる可能性がある。

しかし、裁判員に広範囲に守秘義務を課しているようでは、だめだ。そうではなくて、好きなようにしゃべらせて、あとは学者なり、裁判官なり、専門家が分析し、理論を構築するなりすればいいではないか。裁判員自身も、発信してくれるかも知れない。みんなで、ワイワイやって、量刑とは何か、犯罪と刑罰とはどのような関係にあるのか、人間関係における対価関係となにか、それと社会との関係はどうなっているのか、そして、人類の進むべき道はどのようなものか、大いに議論すればよいではないか。必ず、人類の将来に役にたつ知見が得られるはずである。裁判員裁判には、それくらいのパワーがあるはずだと、私は思っている。

6.著者は、もと刑事裁判官であり、量刑に関する著書もあるその経歴からして、上記のようなロジェクトを率いるのに、最適の人間ではないか。裁判員の守秘義務撤廃の運動も必要である。法曹、法学者のみならず、社会学者、歴史学者、文化人類学者、生物学者などなど、関連する専門家を集結させて議論させたら、さぞ面白いことであろう。いわば量刑の梁山泊だ。

そして、その結果をまとめた本を出せば、著者の倉田卓次超えは確実である。