2017.06.10

大塚 嘉一

岩竹美加子「PTAという国家装置」を読む

1.PTAは、戦後、GHQに押し付けられて出来た、と思っている人が多いのではないだろうか。

岩竹美加子著「PTAという国家装置」(2017年)は、その誤解を、木っ端みじんに打ち砕いてくれる。戦前からあった組織との継続性が、丹念に、記述される。

ただし、PTAは国家の統制を許すから、これを廃しなければならない、と説くのは、題名の「国家装置」という言葉遣いからも窺えるように、ちょっと一昔前のサヨクっぽいテイストが漂う。

2.著者は、自身が、PTA改革派と断定した人々を列挙し、「楽しいPTA」すなわち現状維持を勧めているだけ、と批判する。その中には、なんで俺がここに挙げられるの、なんで批判されないといけないの、といぶかる人もいることであろう。

著者とは反対に、私は、そのような活動をしている人々を応援したいと考えるのであるが、重要な人が抜けている。「運営からトラブル解決までPTAお役立ちハンドブック」(2015年)の著者である田所永世だ。

田所のブログ(田所永世のPTAブログ)で述べられるその考察も、バランス感覚に優れ、見識だと思う。同ブログ中の「PTAの全員加入について保護者同士で議論してみた」は、PTA反対派の人との対談の形をとっているが、創作ではないかと疑うほど面白い。PTAを巡る争いは、すでにして国民の分断の表れではないか、という指摘は、鋭く、胸を射抜かれる。

3.「学校の保護者組織は、必要に応じて保護者が作るべきだろう。すでに構築されている国家組織に組み込まれるのではなく、必要な組織があれば柔軟に作っていくべきである。」と、著者は提案するのであるが、どうかなあ。

そのような組織は、そんなに簡単に作れるのか。作ったとして、その組織が民主的である保証があるのか。民主的であり続ける保証はあるのか。

そうでないなら、現在あるPTAを改革する、という方向性もあるのではないか。その方が望ましいと言えるのではないか。

著者の主張は、出来上がった大人を再教育するのは難しいから、これを皆殺しにしてしまえ、と言って知識人を大量虐殺した人々を思い起こさせる、と言うと言い過ぎか。著者が持ち上げる面々、顔ぶれをみていると、そんな思いがする。

4.私は、PTA活動は、義務ではなく権利であると考える。

生物の親は、子供に対して、生き残るための術を、その知識と経験とを、必死になって教える。教育の基本は、それではないか。したがって、それは、もともと、個人的、私的なものである。私も、お金があったら、家庭教師に一流の人物を雇って自分の子の教育をしてみたい。昔の貴族のように。しかし、現代社会では、それを個人が行うことは不可能なので、皆で協力してやろう、ということなのではないか。PTAは、その重要な一環ではないのか。

しかし、歴史を振り返れば、教育権が国家に取り上げられたこともあった。教育内容が恣意的に変更されてしまったこともあった。今度、そのようなことがあったとき、保護者は、どのように戦うのか。PTAは、権力に対抗する有力な拠点たりうるのではないか。そのくらいの覚悟をもって、気概をもって、PTA活動をしたいものである。

進化生物学において、進化の主体は、遺伝子なのか、個体なのか、集団なのか、それらと文化との関係如何が今一番ホットな争点となっている。生きるということは進化することである。我々の生を描こうとする試みと言うことができる。これからは、文系の学問であっても、そのような視点が、参考になるのではないか。いや、政治学のみならず、法律学や経済学でも、どのレベルでの議論かを、意識することは、重要である。文系の論文における議論の混乱を整理するために、是非必要なことである。

遺伝子は置くとして、教育においても、個人の問題なのか、国家の問題なのか、それとも共同体の問題なのかは、常に意識しておく必要があるだろう。これは、左翼だろうと右翼だろうと変りはない。

5.同書には、いろいろと問題がある。

著者によるロールズの位置づけがおかしい。

アメリカのPTAを論ずるのに、ロバート・パトナムだけでは足りない。シーダ・スコッチポル、もっと言えばトクヴィルを抜きに、アメリカのPTAを語れるのか。アメリカのPTAは、まず全国組織があるのに対し、日本は、各学校のPTAが主体である。著者は、日本PTA連絡協議会を過大評価しているのではないか。

著者は、何を専攻してきたのであろう。どこで学問的修業をしてきたのだろう。まず結論を示して、それに沿う資料を並べるという作法は、何なのか。これは、まず、学術論文ではない。エッセイとして読め、ということなのか。

端的に言って、PTAの民主主義における役割についての考察が欠けている。

総じて、著者は存在しない敵を作り出し、それと戦っているように見える。

6.著者は、後書きにおいて、生前の母親と良好な関係が持てなかったことを告白し、その理由として、母親が日本の軍国主義によってスポイルされたことを示唆する。しかし、不仲の原因は、それだけではあるまい。

いつか、母と娘とが「和解」できる日がくることを、祈りたい。