2020.04.10

大塚 嘉一

新型コロナウイルスと統計学及び哲学

1.新型コロナウイルスの終息が見えてこない。

裁判所も、裁判の期日は取り消し、次回期日は追って指定といった事態だ。

医療関係者の頑張り、努力には、いくら感謝しても、感謝したりない。社会インフラを支えている人々に対しても、同様の思いだ。

そのような中、専門家の責任について考えたい。

2.この先、感染者は減少するのか、拡大するのか。緊急事態宣言を解除するべきなのか、そうするべきではないのか。

政府は、ある感染症専門家の意見を参考にして、政策決定をしているようだが、それで足りるのか。その専門家は、どのような数理モデルを用いて、どのようなデータを入力しているのか、情報が伝わってこない。専門家の間では明らかとなっている、のかと思うと、そうでもないらしい(2020(令和2)年4月29日日本経済新聞朝刊「コロナ対策 足らぬ集合知」)。数理統計学が使われているはずだが、以上のような条件が明らかにされなければ、専門家同志でも議論ができないのではないか。

現場の医師は、目の前の患者の命を救うことに懸命だと思うが、視点を高くすれば、それよりも大事なことがあるのかも知れない。より多数の者の命を救うためにはどうすればよいか。社会全体の活動を終焉させないためには、どうすればよいのか。医師や医師会だけではなく、感染症学であったり、経済学の専門家の知見が必要だ。

そのようなときに、数理統計学は、共通の言語として、学問の壁を越えて、専門家同志のコミュニケーションの道具となるはずだ。国民がその正当性を確認、検討する手段でもある。

3.数理統計学だけでは足りないはずだ。同様に、専門や、価値観を異(こと)にする者同志にコミュニケーションを成立させ、集団の構成員相互の理解や統合を果たす手段として、哲学がある。

話者が、どのような価値観に基づいて、そのような意見を発表しているのか、それを知る必要が生じる場面がある。そのような時には、学問の中の学問、問うこと自体を問う学問である哲学の出番である。救うべきは、特定の一部であるのか、それとも全体なのか。全体の利益とは何か。集団の中における、個人の役割とは何か。正義とは、公平とは何か。

近時の哲学は、頭の良いことを見せつけるだけの学問になり下がったかに見えていたが、最近、伝統的な問題の解決に役立てようとする傾向があるのはうれしい。しかも、数理統計学や進化生物学など、従来、哲学とは関係ないと思われてきた分野とともに再登場しつつあるのは、驚きだ。

理系と文系などという区分けは無意味だし、全ての人が、統計学、生物学や哲学の恩恵を受けられるようになって欲しい。哲学は、専門や価値観、知識や経験の差を、議論を通して克服し、みんなでより高い高みに到達する手段だ。

4.最後に、専門家の覚悟について一言。

専門家は、自分の専門を掘り下げて欲しい。そして、その結論については、最後(最期?)まで、責任をもって欲しい。

もちろん、私の脳には、青少年をたぶらかすという罪状で死刑を言い渡され、それでもポリスの決定には従う、ポリスを自分の命よりも重く見る、という判断をして、自死を選んだソクラテスの姿があることは言うまでもない。彼は、最期まで責任を果たした。